里山エッセイ
« 吉野川のスイセン|里山エッセイ:トップ|吉野川は水も空も青い »
モラエスの愛した風景



「ここは悩みも悲しみもない魔法の土地!永遠の魅惑のうちに紙の家の平安につつまれて、どんなにぼくはここで暮らしたいことだろう!どんなにぼくはここで死にたいことか、・・・・」(モラエス「大日本」)
日本で余生を送ることを願ったモラエスは、すべての官職をすてて、神戸から徳島に移り住む。
彼はポルトガルに残る妹のフランシスカにあてて、609通の葉書を送っている。そのうちの603枚が日本の風景や文化を紹介する絵葉書であった。そして約半分が徳島の風景だ。
鳴門、小松島、祖谷の自然風景や、眉山から見渡した徳島市街の写真など、100年前の徳島の風景がよみがえってくる。
死の前に送った3枚の絵葉書は、帆かけ船の浮かんだ吉野川、そして阿波踊りの写真。“奇抜極マル徳島踊”と印刷の字が見える。最後が新町橋のものだ。
モラエスは「徳島の盆踊り」の中で、新町橋についてこのように書いている。
「この橋は徳島の心臓部にあり、絵のような水路を一本越えると、山を背景にちかくに家々が立ち並ぶ優美な風景と、何隻かの小船が行き来する鏡のように穏やかな美しい水面が通行人の目に映じる。・・・・」
モラエスは、眉山のふもとにある、最愛の女性おヨネの墓参りが日課であった。時々、足をのばして、滝のやきもち屋でやきもちを食べるのが楽しみでもあったようだ。
そのひとつである和田乃屋さんの庭には、モラエスからの贈り物といわれる「黄花亜麻(きばなあま)」が今満開である。眉山から湧き出た滝の水に溶け込むように、可憐な黄色い花を咲かせている。
おヨネさんは、この花のように清楚な美しい人であったようだ。
最初の文の後にモラエスはこう続けている。
「・・・・人知れず大地に戻り、蝉たちが永遠の賛歌を歌うであろう竹林のかげにとこしえに横たわって!」
その希望のとおり、16年間徳島で住み続けたモラエスは、1929年7月、伊賀町3丁目の四軒長屋のささやかな紙と木の家で、ひとり孤独に亡くなった。75歳であった。
竹林には蝉の鳴き声がこだましていたであろうか・・・・。
建築家 野口政司 徳島新聞夕刊 2月15日付け
コメント
モラエスの愛した黄花あまはインドの原産なそうな。
たったのひともとをここに移し植えたそうな。
今は、見上げる崖一面に、崖を覆うばかりに育っている。
流れ落ちる「大滝」が興趣を添える。
今回の里山セミナ-は、石原さんと福原さんというモラエスその人になり代わったような熱心な方が参加されて楽しかった!
徳島という異郷の地で最後は一人孤独に生涯を終えたと、自分が描いていたモラエス。しかし、改めてモラエスの書いた本を読んでみると、日本の文化に深い造詣を持ち、日本人の感性そのものの持ち主であったことがよく分かる。
今回私は「徳島の盆踊り」「おヨネとコハル」しか読めなかったが、文体も描かれる情景も私たちが忘れてきた過去の何かを思い出させて懐かしい。懐かしくて新しい。
福原さんが言われていた。モラエスの故郷ポルトガルと当時の徳島には似ているところが多々あった、と。だから、徳島もまた愛して止まない故郷だったのだ、と。
早朝、新町橋を渡りながら、ぞめきの中の新町橋の一文を思い出しました。
でも、モラエスの見た風景からはあまりにも時代が‘進化’してしまって、その面影を重ねるにはもう時遅し・・・
モラエスの記す日本の風景、文化、女性像はモラエスの中で限りなく純化したのだと思います。
そして、違う時代に生き、違う文化や価値観を持ったモラエスの文章がとても新鮮に思えました。
今年のセミナーのめざすところがわかったように思います。