里山エッセイ
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幻の浄土
紀州、那智山から見渡す熊野灘は、押し寄せる波の白さが際立つ。夏の空はあくまで青く、ここに立つと、私たちの住む地球は森と海からできているのだ、と実感することができる。
那智の滝から青岸渡寺、熊野那智大社へと続く奥行きのある風景を眺めながら、那智山を登るとやがて展望所に出る。
これから西は、世界遺産に指定された高野・熊野の深い巡礼の森が連なっている。そして東側は、本州最南端の潮岬から新宮、熊野まで続く海岸線の向こうに太平洋が広がる大風景である。
ここから見える紀州の海の向こうには極楽浄土があるとの伝説があったそうだ。その幻の浄土、補陀洛山(ふだらくさん)にひとり船に乗って旅立つのが補陀洛渡海である。なるほどと思わせる何かがこの海の風景にはある。おそらく後に控える巡礼の森が背中を押すのであろうか。
那智の浜の近くに補陀洛山寺がある。そこに渡海船の再現されたものが展示されている。屋形船を少し小さくしたもので、人ひとりが横になれるほどの小屋が船の上に乗っている。
渡海僧は、30日分の油と食料をたずさえて、外に出られないようにくぎ付けされた船の中で、一灯をともし、日夜法華経を唱えながら、南海の彼方へ船出していったという。
「熊野年代記」などには、貞観10年(868年)の慶龍上人から始まり、江戸中期まで、19回の補陀洛渡海が行われたと記録されている。
しかし、必ずしも悟りをひらいた僧ばかりではなく、近世になると、金光坊という人が途中で逃げ出し、島に上がったところを見つかってしまい、無理やりに入水させられたという話も残っている。このころから補陀洛渡海は伝説となり、実際に行われることはなくなったそうである。
さて、その小さな渡海船を見ながら、私はわずかの食料と片道だけの燃料で出航していった、人間魚雷回天のことを思い出していた。これは現代、ほんの60数年前に行われたことであった。
はたして補陀洛渡海と何かつながりはあったのであろうか。身動きできない操縦席に入り出撃していった彼らに”幻の浄土”は見えていたのだろうか。
目の前の夏の海は底抜けに明るい。
建築家 野口政司 (徳島新聞夕刊8月17日付け)http://www.topics.or.jp
コメント
今光坊が主人公の短編小説「補陀落渡海記」(井上 靖)は、「みずから仏に化するという意志と、本能的な死の恐怖とを、ユ-モアと残虐さで織り混ぜた名作」と言われています。何回読んでも、いよいよ61歳のその時が来て否応なく船出、荒海に漂い、助かりたい一心で板を叩き割った心情がひしと伝わり、とても辛い気持ちになってしまう小説です。
8月15日には、私も考えました。戦争というものが、否応なく個人の自由を奪ったその残酷さを。どうしてそんな理不尽がまかり通ったのでしょう?
金光坊に特攻兵の無念さを重ねたこのぞめきの記事、たくさんの人の目にふれてほしいと思います。
夢溢れる無数の青年達は、戦争末期のあの戦況の中,絶対的な流れにあらがうことのできないままその時代に生まれた無念さに歯軋りしながら落ちていったのか、あるいは名誉の戦死などという虚言を信じて出撃していったのか、またはそのような感情を抱く自由も時間もなく追い立てられるように死んでいったのか・・・
釘付けされた舟の中というのがとても生々しく、船底に身を横たえ60数年前の壮絶な瞬間に思いを巡らせました。
私はまだ戦争の悲惨さの一部しか理解できていません。
残暑お見舞い申し上げます。
お元気でご活躍の御事と存じます。
さて、夕刊の愛読者としてコラムもしっかり読ませてもらっています。木や自然に対する深い思いを建物にと、心しておられること共感しております。先日の補陀落渡海の稿、東野光生作の「補陀落幻影」を読んでいましたから、とりわけ深い感銘を受けました。
傘寿を過ぎますと諦観の念も自然に芽生えて来ます。父母の眠る里山に抱かれて住む家にもひときわ愛着が深まり、花鳥風月に身をおきながら平穏に過ごしております。
暑さのみぎり貴男様のご発展心よりお祈り致しています。